カラカラと軽快な車輪の音が響いている。
馬車こそ、何の変哲も無い荷馬車ではあったが、馬は上物だ。見た目はやや無骨であるが、乗り合い馬車のような疲れた老馬ではない。軍馬として調教されていた血統の良い馬だ。
「気にするな。いいじゃないか。馬車も手に入ったことだし……足が速ければ、それだけ賊に襲われる事も少なくなる」
この馬車は、ガーナ伯爵リュガルトの姪に対する密かな愛情の賜物だ。
アルフィナの旅立ちがいつ王妃の耳に届くかはわからない。だが、そこから人を動かすにしても多少の時間はかかるだろうという読みの元、少しでも距離を稼ぐために馬車を仕立ててくれた� �だ。
とはいえ、最初にリュガルトが用意した馬車はシェスティリエに速攻で拒否され……伯爵家の使う馬車は使用人が利用するものでも少々高級すぎた……今、彼らが乗っているこの馬車は、ルドクがリュガルトの出資の元、聖堂近くの農家から買い取ってきたものだ。
外見は普通の荷馬車だったが、中にはふかふかのクッションやら、絨毯が敷かれていて、なかなか快適なしつらえになっている。行商人の馬車の程度の良いものだと思えばよいかも知れない。
「今度の賊は、いつもとちがって正規の軍人さんってこともあるんですよね?」
「どうだろうな……俺としては、追いつかないと読んでる。……たぶん姫さんもな」
一段高くなった御者台から、後ろを見る。
御者台の後ろに詰まれた長持ちの向こ� �側に、色違いの三つの頭が並んで見えた。
左側から、金・銀・黒で、すなわち、アルフィナ・シェスティリエ・イリの順だ。
シェスティリエは、外套を毛布代わりに昼寝をしているのだが、イリとアルフィナは、シェスティリエのすることを真似する傾向にある。今も一緒になって転がっている。当初は寝ているシェスティリエを挟み、二人でなにやら牽制しあっていたのだが、いつの間にか二人とも眠ってしまったらしい。
常にゆれ続ける馬車で眠るのには、かなり根性がいるのだが、慣れというのはなかなかすごいものだ。
「だから、ここのところいつも寝てるんですかね?」
「ああ。……ついでに、万が一に備えて、魔力を溜めてるとも言ってたな」
体力がそれほどないシェスティリエだったが、そ� �でもこれまではこんな風に寝ていたことはなく、当初、イシュラはかなり心配したものだ。
「魔力?へー、魔力って溜められるものなんですね」
「そうなんだろ。姫さんがそう言うからには……」
イシュラは、聖職者や魔術師をそれほど詳しく知らない。ルドクは、聖職者はそれなりに身近だったが、せいぜい治癒の術を使うところと魔力板を作るところくらいしか見たことがない。
最も身近な魔力を持つ人間が、シェスティリエなのだ。彼らは、シェスティリエが凡例にならないことにまだあまり気づいていない。
「あ、でも、できるのかな……。銀月のグラーダスの古詩を知っていますか?」
それは伝説の騎士王の古いサーガだ。吟遊詩人に歌われるだけでなく、ちょっとした町の祭などでは、芝居� ��仕立てられて上演されることも多い有名なもので子供たちの人気も高い。
「ああ、知ってる。子供の頃に、芝居かなんかで見た気がする……ほら、騎士王の悪竜退治とか」
「ええ。僕もそうです。町のお祭りで見ました。僕、その手の話、すごい好きなんですよ」
「だろうな」
ファンだという天空の歌姫の事だけではなく、伝説の英雄とか、魔術師とかに異常に詳しい。
「確か、その中で、グラーダスは月長石に十年の魔力を溜め続け、ついには、その月長石は命を持つに至ったっていう説明がありましたよ」
「覚えがねえなぁ」
「それで、その月長石を柄にはめこんだのが、銀月の騎士王グラーダスの愛剣『ディヴェヌ』なんです」
「……『闇を斬り、空をも切り裂くディヴェヌ』か……」
「え� �、そうです」
「確か、ディヴェヌはグラーダスの墓標代わりになってるって古詩の最後にあったよな?」
「ああ、そうです。……えーと、騎士王の最後は、誰も知らぬ辺境の泉のほとり、妖精に見守られながら息をひきとり、妖精達が彼を葬ったはずです。それで、剣を墓標としたって……。もし、騎士王が実在の人物だったなら、剣はそのまま残ってるってことですよね?他の剣なら朽ち果ててしまうでしょうが、命ある宝石が埋め込まれてるんですから」
売り飛ばしたらさぞかし高く売れますよね……などと、いかにも商人らしいことを言う。
「どうなんだろうな……でも、眉唾だろ。グラーダスのしたこと全部並べると、少なくともグラーダスは二百年は生きていたことになるじゃんか」
「あ、それは実在を� ��う根拠にはなりません。グラーダスは、魔導師だったんですから」
ルドクは当然といった口調で告げる。
「……え?そうなのか?」
「ええ、そうです。魔導師が平均的に長寿なのは、イシュラさんもご存知ですよね?」
「ああ」
「僕の好きな天空の歌姫は、八百歳を越えたはずです。……でも、彼女は本来なら、もっと寿命が長かったはずなんです」
「八百歳越えててか?」
「ええ。……彼女は、大崩壊でその寿命の大半を削ったといわれてますから」
「へえ……」
ちらりとイシュラは後ろに視線をやる。
どうやら、シェスティリエは聞いていないらしいので安心した。
「……そういう魔導師だったら、きっと、僕らがこうしている距離も一瞬で移動できるんでしょうね」
「かもし れねえな……でも、魔術とか魔導とか、それほど便利なもんでもなさそうだぜ」
「……そうなんですか?」
「ああ。姫さん見てるとそう思う。……姫さんは魔力はあるけど、まだ子供だろ。だから、術を使うにもいろいろ制限あって大変らしい」
「へえ……まあ、とりあえず、早いところ国境を抜けたいですね」
「そうだな。国境を抜ければ、野営しなくてもいいしな」
「せめて、聖堂に泊りたいですよ。水浴びにはそろそろ寒い季節です」
「確かにな。……姫さんはともかく、アルフィナ嬢がよく我慢してる」
鏡の中の女性は帽子をかぶっているアーティストと恋に落ちる
本来、巡礼の旅は各地の聖堂を巡る旅でもある。だが今は、追っ手のことを考えて聖堂には立ち寄らない。馬をこまめに休ませるために小刻みに水場で休憩をとり、夜は野営することにしているのだ。
時折立ち寄るのは、街道沿いにあるちょっとした雑貨屋や大きな農家くらいのもので、リスタから王都に来た時の倍近くの速さで距離を稼いでいるだろう。
かなり厳しい強行軍でありながらも、イリはもちろんのこと、アルフィナも決して文句を言わない。
(まあ、アルフィナさんは、自分の命の問題だしな……)
それでも、弱音一つ吐かないところは、なかなか好ましいとルドクは思う。
「でも� �お荷物の僕が言うのも何ですが、万が一、追いつかれたらかなりやばいですよね」
「別に。どうせ、俺が守るのは姫さんだけだ」
はははは…、とイシュラが豪快に笑う。
「シェスさまが、庇うかもしれないじゃないですか」
「まあ、そうかもしれないっつーか、たぶん、そうするだろうけどな……。最終的には姫さんはちゃんと一線を見極められる人なんだよ」
「一線を見極めるって?」
「本当に危険なときに選ぶものを、姫さんなら間違えない。………もし、それでも姫さんが守るっていうなら、危険を侵してもそいつらが必要だってことだ」
なら、オレはそれに従うだけだ、とこともなげに言う。
「イシュラさん、ほんっとにシェスさま馬鹿ですよね」
「だから、主持ちの騎士ってのはそう� ��うもんだって」
「……イシュラさんみたいな人ばっかりなのかと思うと、騎士の見る目が変わりそうです、僕」
「はははは……でも、どっちかっていうと、オレは例外だろうな」
「なんでです?」
「オレほど、主に恵まれている騎士は他にいないからだ」
イシュラがあまりにも真顔で言うので、ルドクはどこにも突っ込む事ができなかった。
夜の森は、虫の大合唱の中にある。
(まるで、音の洪水だわ)
夜の庭にも確かに虫はいた。けれど、こんなにも多種多様な……溢れんばかりのたくさんの虫の音を、アルフィナは聞いた事がない。
「あまりおくにゆかぬようにな、アルフィナ」
「はい」
「なるべくかわいているものをひろうのだぞ。そのほうが、けむりがでない」
「 ……そうなんですか」
「ああ。なまきだと、けむりがでてよくない」
「はい」
シェスティリエの言葉の一つ一つをきちんと聞き留める。
アルフィナは、この旅の一行で自分が最も役立たずであることを自覚している。隠されていたとはいえ、名門貴族の娘として育ったアルフィナは、侍女や乳母に仕えられることになれきっている。
シェスティリエの侍者となり、自分が仕える立場になった今、あまりにも何もできないことに気づいて愕然とした。
シェスティリエはこの幼さで既にかなり旅慣れていたし、ルドクやイシュラは言うに及ばない。ほぼ同時期にこの一行に加わったイリも、聖堂では下働きをしていたとかで、何をやらせてもすんなりとこなす。アルフィナ一人が、言われなければ何もできなかった� �
口惜しいと思う以前の問題だった。
(だから……)
まず、身近なところから頑張った。
手伝えそうなことは積極的に手伝い、何が手伝える事があるかどうかをたずねる。
最初は何も言いつけてもらえなかった。イシュラとルドクは、貴族の娘は何もできないと思っていたからだ。
でも、旅に出て五日目の今、水汲みはアルフィナの仕事だ。
最初は、馬を洗っている下流で水を汲んだりする失敗もあったが、今はもうそんな失敗はしない。
(飲み水は、できるだけ水源に近いところから取る事。川の場合は、浅瀬の……イトギがいるところをさがすこと。池の場合は、ミルラが生えているところをさがすこと……)
イトギという魚は、綺麗な水を好む川魚。ミルラというのは水辺に生え� ��植物で、やはり綺麗な水でしか育たない。どちらも、シェスティリエの教えてくれた事だ。
知らない事があることは恥ずかしいことではない。知らない事を知ろうとしない事の方が恥ずかしい事なのだと、言われた。
だからアルフィナは、なぜそうなのか、なぜそれを選ぶのかを尋ねるようになった。最近では、皆、自然に説明してくれる。
「イリ、アルフィナのひろったえだをよりわけてやれ。わたしは、やえいちにもどる。……ふたりとも、しゅういにちゅういして、ほどほどにな」
「はい」
こくりとイリは、返事の代わりにうなづいた。
アルフィナは、イリがしゃべっているのを聞いた事がなかった。よほど自分を気に入らないのかと思って少しだけ腹をたてていたのだが、昨日、ルドクにイリが� ��ゃべれないことを教えられて驚いた。
と、いうのも、アルフィナのみるところ、シェスティリエとイリはまったく意思の疎通に不自由している様子がなかったし、イシュラやルドクもそうだったからだ。
(私も……イリのことが、わかるようになりたい)
イリと意思の疎通が図れなかったとしても、さほど不自由を覚えるわけではない。極端な事を言えば、アルフィナはイリと関わらなくてもまったく困らない。たぶん、イリだってそうだ。そもそも、イリはシェスティリエ以外にほとんど関心がない。
(……でも)
それでも、アルフィナはイリと何とかして意思を通じあわせたかった。
(ライバルだし……)
互いにシェスティリエの関心をひきたくて……、自分を見て欲しくて……、張り合う 。
暇さえあればいつもそばにくっついているし、どこかに行くときはいつも後をついてゆく。
寝る時はいつもアルフィナはシェスティリエの左側で、イリが右側。
一度、イリと二人で張り合って抱きついていたらそのうちに寝てしまい、互いの寝相の悪さでシェスティリエを潰しかけ、イシュラにさんざん怒られた。
以来、寝るときは抱きつくことも、手をつなぐことも禁止になった。手をつないでいるとシェスティリエが寝返りがうてないからだ。
(もっと、知りたい)
曲は"あなたは愛をすることができます。"
シェスティリエを挟んだ時だけ、イリはアルフィナを見る。
アルフィナを邪魔だと思っているような視線で、子供が大事にしているものをとられまいと警戒するようなそんな態度をとる。
アルフィナとしては、別にイリから奪うつもりはないのだが、自分にも関心を払って欲しいと思っているので、ついつい張り合うようなところがある。
(でも、そういうのじゃなく、『私』のことを、ちゃんと認めてほしい……)
シェスティリエを奪う邪魔者としてではなく、同じシェスティリエの侍者として……普通にいろいろなことを話してみたかった。
アルフィナは、年の近い子供と接した経験がない。普通なら乳母の子がい� ��一緒に育つものだが、アルフィナの乳母は、子供を死産した未亡人だった。
それに、その出生のせいで、外出の機会も極端に少なかった。
他の使用人の子供達とは言葉を交わす事が許されていなかったし、たとえ、許されていたとしても、結局のところ、お嬢様と使用人としてだっただろう。
でも、イリとは違う。イリはアルフィナに仕える人間ではないのだ。
(イリと、友達になりたい……)
実のところ、それが、アルフィナのひそかなる野望だった。
その為にはもっとイリのことが知りたいし、自分の事も知って欲しいのだ。
ルドクはいろいろなことをよく知っている。たぶん、アルフィナが問えば、差し支えない範囲でイリのことも教えてくれるだろう。
けれど、アルフィナが知りた いのは、イリの過去や、これまでしてきたことなどではない。
イリが何を考え、どういう風に感じるのか……
(イリという人を知りたい……)
それは、少しづつ強い欲求になりつつあった。
足元の小枝を集めながら、アルフィナは立ち尽くしているイリに目をやる。
イリは、シェスティリエが戻る後姿を、見えなくなるまで目で追っていた。
(シェス様のこと、本当に大好きなんだよね)
それは、イシュラもルドクも一緒だし、自分だって大好きだ。
でも、二人の『好き』と自分たちの『好き』はちょっと違う気がしていて、アルフィナとイリのそれは似ている気がする。
(シェス様が、私を救ってくれた)
『そなたのせいじゃない』
その一言が、アルフィナの心を解き放� ��てくれたのだ。
きっと、シェスティリエはそんなことはまったく知らないだろう。
(でも、それでいい)
シェスティリエは、何かと自分は聖職者にはあまり向いていないというようなことを口にするが、そんなことはないと思う。
聖堂の偉い司祭達は、『これも神の試練なのです』と説くだけで、何もしてくれなかった。叔父がどれだけ苦悩していたか、アルフィナは知っている。
アルフィナだって、何もできない自分を、存在しているだけで罪のように感じていた。
(優しい慰めも、慈しみの微笑みもいらない)
そんなものは、何の救いにもならなかったし、何の役にも立たなかった。
アルフィナを……叔父を救ったのは、シェスティリエの歯に衣を着せぬ物言いであり、利用価値があ� �と言い放つその正直な態度だった。
(シェス様が、道を示してくれた……)
その道が正しいかなんてわからない。けれど、アルフィナにとってはたった一つの希望だ。
(だから、私は、後悔したりしない)
どんな結果になるのであれ、今こうしている自分を悔いることはきっとない。
「……イリ、早く拾って戻ろう。きっと、シェスさまも待ってる」
イリは、アルフィナにしゃべりかけられたことに少しだけ驚いたような顔をし、それから、こくりとうなづいた。
シェスティリエにしか関心がないように見えるイリだったが、こちらから話しかける分には、無視したりすることはないらしい。
真面目にやれば、10分もすると抱えるくらいの量の小枝を集める事ができる。それを抱えて籠に� ��れようとすると、くいっくいっと外套の袖がひかれた。
「なに?」
イリは、上の方に混ざっている枝を抜いて、首を横に振る。
「……え、この枝は、ダメなの?」
こくり。
「どうして?」
イリは、火打石をつけるマネをして、鼻をつまんだ。
「あ、わかった。火をつけると匂いがすごいんだ。……そうでしょ?」
そうだ、というように、イリはこくっとうなづく。
「そっか。……教えてくれてありがとう」
ふるふるふると首を横に振る。「どういたしまして」ということなんだろうとアルフィナは解釈した。
(どうしたらもっと話せるんだろう……)
身振り手振りでは限界があるし、アルフィナの解釈が間違うことだってあるだろう。
イリはアルフィナに誤 解されたところで何とも思わないだろうが、アルフィナはそうはいかない。
(筆談ができないか、シェス様に相談してみよう)
いつがどうとは正確には言えなかったが、たぶん、この夜が、アルフィナの野望実現への第一歩だった。
ぱちぱちと木のはぜる音がする。
イリは拾ってきた木の枝を小さな鉈で整え、束にして丈夫な麻糸でくくり、馬車の片隅に積んでおく。古いものから使うので、毎日拾わなくてもいいが、野営する場所によっては拾えない場所もあるから予備は必要だ。
多く拾いすぎてもまったく困らない。余剰分は、農家などで野菜などと交換してもらえたりもするし、シェスティリエの好きな果物と交換できれば、イリはもっと嬉しかった。
聖堂にいるときと違って干しておく事がで� ��ないので、最初から枯れた枝を選ばなければいけないが、落ちている枝はだいたいが枯れているから、それほど問題はなかった。
鉈を道具箱に片付け、地面に落ちている払った小枝を、燃えている火の中に投じると、ぼおっと火の勢いが強くなる。
(あたたかな、火……)
焚き火の炎は、とても優しい炎だとイリは思う。以前、聖堂の納屋が焼けたときにはものすごく恐ろしく感じられたのに、こうして眺める炎には安らぎを感じる。
石を積んでつくった簡単なかまどには、いい匂いをさせながらグツグツと煮立っている鍋がかかっていて、匂いを嗅ぐだけでワクワクした。
「きょうは、やまどりのスープだ」
1つのトニーの歌詞です。
のぞきこむイリに、シェスティリエが教えてくれる。
嬉しくなって笑った。
「これでときどき、かきまぜておいてくれ。そこがこげつかないように」
大きな木ベらを渡されて、こくこくとうなづく。自分がシェスティリエの役に立てることが、イリにはうれしくてならない。
(…………ひかり)
イリにとって、シェスティリエは光だ。
夜になるといっそうくっきりと見える銀色の光。シェスティリエは、昼間の太陽の下でも常に光に包まれて見える。
この数日は尚更強く、今はもうまぶしく感じられるほど。
(生きている、月……)
シェスティリエは、まるで月そのものだ。まっすぐと流れる銀の髪、夕闇を映� �た紫の瞳……そして、その冴え凍る美貌。それはまるで、吟遊詩人が歌う天空の歌姫そのもののようだとイリは思う。
(目の色が、ちがうけど……)
「シェスさま、何かできることありますか?」
アルフィナが水を汲んだバケツをもってやってくる。イリにとって、この自分より少しだけ背の高い少女は、謎の存在だ。
シェスティリエを取られそうな気がして嫌なのだが、これまでの聖堂にいた他の子供のように叩いたり、つねったりというようなことはしないから嫌いだというわけではない。
だからといって、「どうでもいい」と思って無視するには、あまりにもいつも近くに居すぎる。
結果として、イリはアルフィナにどう接していいのかがまったくわからない。
ルドクやイシュラのような大� ��ならばまだいい。用がなければ別に声をかけてくることもないし、放っておいてくれる。でも、アルフィナはイリに話しかけてくるし、問われても、声を発する事ができないイリは困ってしまう。
「じゃあ、イシュラとルドクにこえをかけてきてくれ」
「はい」
今日の野営地は、小さな小川が流れている森の入り口だ。
目印になるような大きな楠の木の下に馬をつないで馬車の車体を寄せている。これだけ大きな木だと外に寝ても雨にぬれる事はほとんどない。
「お、うまそうなにおい」
「さっきおまえがとったやまどりだ。いいだしがでてる」
「へえ」
「シェスさま、残念ながら、釣果はゼロです」
「きたいはしていない。このじき、よるにかわづりはむずかしいからな」
もう少し日が� ��てば、場所によっては鮭が遡上する川もあるだろうけどな、とシェスティリエはつぶやく。
「鮭!いいですねぇ、やっぱ、粕汁でしょう」
「粕汁って何ですか?ルドクさん」
「アルフィナさんは粕汁を知らないんですか?もったいない!水酒と言われる、米で作られた酒を造ったあとに出る粕をつかった汁物です」
身体があったまるんですよ~と、ルドクは言葉を続ける。
「北のほうの名物なんです。僕の故郷の町から更に北に水酒を特産にしている村があったので、時々食べる事がありましてね……寒くなると食べたくなるんですよね」
「へえ……地方によっていろいろと食べ方は違うんですね。私の家ではムニエルとか……香草焼きばっかりでした。あ、でも、叔父様は燻製にしたものをお酒のおつまみ� �していたようです」
「ローラッドでは焼く事が多いな。燻製もある、ある。……姫さん、食った事ある?」
「わたしはくんせいはあまりこのまない。シンプルにしおやきがいちばんだ」
(ぼくもやいたのが、すき)
「ほう。……イリもやいたのがすきか」
イリはこくりとうなづく。
シャスティリエは、不思議なくらいイリの言いたい事をわかってくれる。まるで、イリの心の声が聞こえているんじゃないかと思う。
(とくに骨)
時々、臨時でまかないに来る近所のおばちゃんが、切り身にした後のサケの骨をこんがり焼いて、おやつがわりにくれた。しょうゆを塗って、ゴマをふってくれたものは本当においしかった。だから、イリは身よりも骨の方が好きかもしれない。
「ほねをたべるとほ� ��がじょうぶになるぞ。……まあ、サケはまたこんどだ。きょうはやまどりだぞ。ちょっとひみつへいきをつかったからかわまでとろとろだ」
「秘密兵器って、鍋の底の魔力板ですか?」
白濁したスープの底のほうににぶく光る板が沈んでいる。
「そうだ。まりょくいたには、じゅつをふうじることができるのだから、アイデアしだいでこういうこともできるのだ」
術を封じるなんて、昔は質のよい宝石などでないと難しかったのにな、と苦笑する。
「なあ。姫さん。……鳥のスープ煮込むために、魔力を使うってどうなんだ?」
「いいじゃないか、へいわりようで。けがれたこころのへんたいをぶっとばすよりも、よっぽどたのしいし、ゆうこうりようだぞ」
「………そうだな」
お互い何を連想 したかには触れない。それが、日々を平穏無事に過ごすコツだ。
焼きたてのバムをもらって、イリは自分の皿にのせる。熱いバムをふーふーと冷ましさましながら食べるのは、聖堂を出てからイリが初めて知った楽しみだった。
今日のバムには干したブドウが入っていて、ちぎって口に入れるとふんわりと甘い。噛むと、そのあまずっぱさが口の中いっぱいに広がって、イリは幸せな気分になった。
(また明日ね、は世界で一番うれしいことば……)
シェスティリエがそう言って帰ったあの日、イリは、シェスティリエの侍者になったのだとラナ司祭から告げられた。
難しいことはよくわからなかったが、司祭は、これからは、シェスティリエの言う事だけを聞いて、シェスティリエの為に毎日働くのだと教� �てくれた。
―――――― あの瞬間の喜びを、イリは一生忘れないだろう。
(それは、とてもとても幸せなこと)
ティシリア皇国に行くのだと言われ、半月以上も旅をしなければいけないと言われたけれど、全然平気だった。
シェスティリエがいるのなら、どこに言ってもイリには天国だ。
(だって、神さまのいるはずの聖堂よりも、ここのほうが、ずっとずっと温かい)
隣にはシェスティリエがいて、イシュラやルドクやアルフィナがいる。
イリは、基本的にはシェスティリエさえいればいいのだが、食事の時は、皆が一緒なのがいい。
皆で暖かな火を囲み、いろいろとおしゃべりをしながら、こんな風に温かいスープを飲む……それは、まるで夢みたいだと思う。
イリは声がでないが、シェスティリエがいればイリもみんなのおしゃべりの輪にいれてもらえる。そのことがとても楽しい。
「イリ、熱いですから気をつけてくださいね」
こくっとイリはうなづく。
アルフィナは、いつもイリに一番最初によそってくれる。
「本当に皮までとろっとろですね」
「姫さん、料理の天才!」
「ざいりょうがよいのだ。� ��とは、てまをおしまぬことだな」
白濁したスープは薄い塩味だ。口に運ぶ瞬間、生姜の香りが鼻をくすぐるのが食欲をそそる。
「すっごく、おいしいです。私、こんなおいしいスープ、初めて!」
イリもそう思ったので、こくこくとうなづいた。
「ですよね。不思議ですね。家のほうが豪華な材料使ってたはずなんですけど」
こっちのがずっとずっとおいしい、とアルフィナはつぶやく。
「『おいしい』とかんじるのが、みかくだけでかんじるものではないからだろう」
一緒に食べる人間、その場所の雰囲気なども大事な要素だからな、とシェスティリエはいう。
「ほい、姫さん」
たっぷり食べてくれよ、と、いつのまにかアルフィナからおたまをとりあげたイシュラが、シェス� �ィリエの木椀にたっぷりとスープをよそう。
具は山鳥の肉だけではない。ジャガイモやニンジンたまねぎもたっぷり入っていてボリューム満点だ。
「そんなにたべられるか!わたしのいは、おまえほどおおきくない!」
「食わないと大きくなれねえぞ、姫さん」
人の悪そうなにやにや笑いにシェスティリエは顔をしかめる。王都を出てからひげを剃らないから、ちょっと見たところ、イシュラは山賊に間違えられそうなほど人相が悪くなっている。
「わかってる。だが、たべられるりょうにはげんかいがあるんだ!」
「ダイエットにはまだ早いだろ?」
「ダイエットなどするか!」
「イリやアルフィナを見ろよ。ちゃんと食ってるじゃねえか」
「わたしのからだのおおきさをかんがえろ、ばかもの !」
だんだんと足を踏み鳴らす様子は、とても可愛い。
(ふつうのちっちゃい子みたいだ)
でも、全然違う事をイリははちゃんと知っている。
シェスティリエ普通の子じゃないし、ただの小さな子供でもない。
(イシュラは、シェスさまにかまってほしいだけ)
ニヤニヤ笑っているイシュラは、絶対にわかってやっている。確信犯なのだ。
イシュラは、イリの視線に気づいて、黙ってろ、というように口の端を持ち上げる。イリも余計なことを言うつもりはない。シェスティリエにかまって欲しいのはイリも一緒で、そこには大人も子供もないと思うからだ。
「ええい、はんぶんはおまえがたべればいいんだ」
私の分もおまえが大きくなればいい!などと無茶を言いながら、イシュ� �のお椀に肉の塊をよける。
そんな様子を、ルドクは笑いながら見ていて、アルフィナはちょっと目を丸くしている。アルフィナには主従でありながらここまで気安いのが珍しいのだろう。
「はいはい、食べますけどね。……姫さん、ここんとこ、まともに肉食ってないでしょう」
「ひつようりょうはたべている。べつにすききらいじゃないぞ」
「まあ、オレとしては姫さんがいつまでもちっこいまんまのが、抱き上げやすくていいんですけどね」
「わたしだって、15になったら、アルフィナくらいにはなるよていだ」
「肉食べないと育たないですよ。……予定は未定っていうでしょう」
そう言うイシュラの視線が向かったのは、アルフィナの胸元だ。といっても、特別に巨乳というわけではない。アルフ ィナは肉感的な体形というわけではないし、まだ15歳で、育つのはこれからだ。
「あ、あの、わたし、別に胸が大きいってわけじゃあ……」
「あ、それはわかってる。単に姫さんが平均以下になりそうだなーってだけで」
はははは、とイシュラが笑い、ルドクは苦笑気味に気にしない、気にしないというように顔の前で手を振る。
「お二人とも、身体的なことをあげつらうなんて失礼です。まだまだ、先の話ですのに!」
深窓の令嬢として育ってきたアルフィナは、話題が話題であるために、頬をほんのりあかく染めて抗議する。
シェスティリエはうつむいて押し黙ったままだ。
「いや、それにしてもだ。姫さんは、肉も魚もあんまり食べないから、そこまで栄養行き届かないと思うんだよね」
「 シェスさまの場合、頭使ってるから、そっちで栄養を全部消費しそうですよね」
「違いない」
そのとおりだというようにイシュラは大きくうなづく。
「……おまえたち」
ややトーンの低い声が夜の静寂を震わせる。
握りしめた拳ふるふると震えた。
「……いいか、おぼえておけ。じゅうねんご、わたしのきょういがへいきんをこえていたら、どげざしてしゃざいさせるからな」
冷ややかな声音だったが、言っている内容が内容なのでまったくいつもの凄みがなかった。
「はい、はい、それを楽しみにしてますから、もう一つ肉食ってくださいね、姫さん」
結局、肉の塊はシェスティリエの器に戻り、不機嫌そうなその口に入る事になった。
2009.09.17 更新
2009.09.18 修正
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